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学科 | メディア学科 |
年度 | 2010 |
ゼミ名 | 山口 功二 |
タイトル | 『日米英ミュージカル産業の比較と、そこから見える日本ミュージカル業界の課題』 |
内容 | 自らが大学4年間、大阪・梅田芸術劇場でアルバイトをしていたことをきっかけに、日本と米英のミュージカル産業について関心を持ち、論じている。 まず、ミュージカルとは何か、ミュージカルの変遷について、など、基本的な知識について確認する。 本論では、日本と米英の、物理的差異(劇場街の形成の仕方など)に加え、興行形態における違いを考察し、「なぜ日本でミュージカルが定着しないか」を検証する。また、日本のミュージカル産業の課題点にも触れ、解決策の提案もする。 他に、現在演劇界で注目されている取り組みの一つである、「舞台のスクリーン化(デジタルシネマ化)」についても論じる。従来の舞台中継とは異なった「デジタルシネマ」の現状と、今後どこまで普及するか、また、どこまでミュージカルファンの裾野を広げられるか、その可能性について言及する。 そして最後に、「ミュージカル」というエンターティメントが、社会的に果たす役割についても、自分なりの見解を示す。 |
講評 | 私の演習クラスの課題は、「現代文化研究」(Contemporary Cultural Studies)である。今年かかれた論文は、三つの領域にまたがっている。①は、デジタルメディア研究、②スポーツと音楽、③は現代社会の状況論といえるだろう。 書かれた論文は、いずれも例年のレベルを超えたできばえであったと粗っぽくいうことができる。就職が超氷河期といわれているにもかかわらず、学生のゼミへの出席率は意外にコンスタントであったし、発表も時代をうまくとらえるセンスが発揮されたクラスでもあった。 ①に属する論文は、『フェイスブックの日本進出が失敗する理由』、『電子時代の新聞ジャーナリズム』、『″個″が中心となる新たな情報モデル』、『報道の市民参加について~シビック・ジャーナリストの可能性~』などである。この枠の『電子時代の新聞ジャーナリズム』の論文が一つの軸をなしている。デジタル・ジャーナリズムが紙媒体ジャーナリズムを駆逐し始めた世界的な現状をまえにしてジャーナリズムの変質を予想する。その前駆的な段階として電子書籍の分析を行っている。これまでのジャーナリズム論は時代遅れと呼ばれ、21世紀のジャーナリズム論の形成にかける。メディアの変質はあってもその変質にジャーナリズムは対応し、新たな公器性を獲得することになると予言する。その視点の一つに立脚するかのような論文が『シビック・ジャーナリストの可能性』である。この論文の立論は市民参加を拒んできた「記者クラブ」論からはじまるのだが、むしろ記者クラブへの攻撃からシビック・ジャーナリズムが生まれたのではなく、シビックメディアがそうした状況を生んだことを逆に示している。 この力を評価する動きは、『情報化社会と個人に求められるもの』にもっと顕著であり、SNS(ソシアル・ネットワーク・サービス)の<マス>→<ひと>への中心の移動が新しい時代を生むと考える。シビック・ジャーナリズム同様、個人メディアが台頭する時代なのだ。TwitterやmixiやFacebookなどと社会関係資本とのかかわりが新しい情報社会を生むと考える。 しかし、『フェイスブックの日本進出が失敗する理由』はこうした個人メディアの普及にも文化的な障碍が存在することを示唆する。時代はSNSの時代であるかのようであるが、はたしてそうか。検討し残していることがないかを示唆する論文となっている。 ②「現代文化研究」の領域で私が個人的に好きな領域はこの分野であるのだが、意外と研究が難しい領域である。『スポーツとメディ』は新聞→ラジオ→テレビ→衛星放送とメディアがスポーツに影響してきた図式を最終的にオリンピックへ頂点化してきたプレセスを描いている。『日本のプロ野球が抱える問題点と目指すべき姿』は、企業型スポーツである日本のプロ野球を「読売ジャイアンツ」の分析から描き、球界の再編成が「東北ゴールデンイーグルス」「ソフトバンクホークス」を例に挙げて論じている。このように書くと、単純な図柄のようだが、綿密な考証とメジャーリーグとの比較論など教示に富んだ好論文である。 さて、この領域でがんばった2論文、『ポピュラー音楽とメディアの関連性~21世紀の音楽流通とコミュニティの可能性について~』と『日米英ミュージカル業界の課題』は私には新鮮だった。『ポピュラー音楽とメディアの関連性~21世紀の音楽流通とコミュニティの可能性について~』によれば、「ポピュラー音楽とメディアを研究しようと思うきっかけになった出来事は、2007年10月1日に起こった。全世界的に人気のあるイギリスのバンド、レディオヘッドが彼らの新作アルバムである『In Rainbow』を、インターネットを通して投げ銭方式でリリースしたのである」、そして「と同時にポピュラー音楽という文化は、メディアやテクノロジー影響を大きく受ける文化だということを改めて認識した」と「はじめに」で記している。ここでもマスの消滅、個の台頭が強調され、コミュニティの可能性が示唆されている。 『日米英ミュージカル業界の課題』は、ミュージカルは、街づくりからブロードウェイ、レスタースクエアなど劇場、それを支える街からできあがってくるものだという。導入から劇場を出たあとまで街が余韻を作り出す。そして商品価値を生み出す劇場、作品、キャスト、街、すべてがそろう必要がある。現在、舞台は多様な仕組みを生み出している。デジタルシネマと舞台の映像化など。シネマ歌舞伎、ライブスパイア、タカラズカ レビューシネマなどの舞台のスクリーン化が行われている。私は、現在日本の地方における芝居小屋の消滅過程を調べているのだが、映画産業が芝居小屋を映画館に変え、映画館がテレビにつぶされていったプロセスであったことを見てきた。 第3の領域は多彩であり、統一的に論じることは難しい。『女性ファッション誌と付録』は、最近発行物卯が退潮傾向にある女性ファッション誌がその対策として付録戦略を採用している状況を踏まえて書かれたものである。そのために『sweet』誌などのファッション誌や「宝島社」それ自身も綿密に検討され、さらに付録雑誌として有名である『大人の科学マガジン』の分析や韓国の状況にまで筆をのばしている。こうしたファッション誌が低迷する雑誌メディアの救世主となることができるのか。 『大学全入時代と大学ブランディング』は、「広告論としての大学」といってよい内容である。大学が全入時代となり、大学選びが受験生の最大の問題となりつつある。そのために大学がブランド商品化している。大学が広報に力を注ぎ、大学が環境や生産物を売り出したりする時代だ。そのなかでも就職が目玉になる。この論文は大学の現状を描きながら、大学批判をおこなっているのだ。 『九〇年代における「だめ連」の社会運動論的研究』は、90年代に留年、失業を繰り返した若者のだめさを裏返しの積極性に変質させた運動を評価しようとしたもの。現代に至る若者の状況や思想を描いたものである。族の研究やコホート論につながる系譜にある。私は一九六〇年代の「若大将」シリーズ世代だが、「だめ連」世代にもつながる若者にほのかな共感を感じる。 最後は『「自死」という言葉の出現と変遷、展望に関する研究』である。この論文の筆者は、昨年の12月24日付けの「毎日新聞」『余録』に紹介された。肉親を亡くした人々を支える団体「Live on」を設立、社会起業家として歩き始 めた。同時期に「朝日新聞」『人』欄でも採り上げられた。悲嘆をケアする状況がいかに多いか。自らの悲しみの体験からGrief Careの必要性を感情的に主張するのではなく、冷静に説明し、説得しようとしている。 |
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