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学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2011 |
ゼミ名 | 石田 光男 |
タイトル | 水道屋の仕事 -水道業界と水道職人の技術習得過程- |
内容 | 筆者の実家が水道工事会社を営んでおり、筆者もよくその手伝いをしていたことから、水道工事というものが筆者の私生活に非常に密接に関わってきた。こういった筆者の特殊な家庭事情により、水道工事に関する論文を書こうと思ったわけである。本論文はインタビューの内容を中心に書かかれており、実際に現場で働く職人達の生の声を通して水道業界の特徴について考察を深めている。水道業界の特徴の一例を挙げるならば、それは女性職人の存在であろう。電気工事、洗い屋、生コン屋などの業界には少ないながらも女性の現場労働者はいるが、しかしこと水道業界に至っては女性の水道工事職人は殆どいない。水道業界には、このように興味深い特徴がいくつもある。そして本レポートによって、読者が少しでも水道業界について理解を深めることができれば、筆者は幸いである。 |
講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
キーワード1 | 水道業界 |
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