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学科 産業関係学科
年度 2011
ゼミ名 石田 光男
タイトル 競輪選手という職業について
内容 日本で最もプロスポーツ人口が多いと言われるスポーツが競輪である。その選手数は3460人(平成22年3月時)に及ぶ。この論文では競輪選手を一つの職業としてとらえ、入職方法から退職、その後に至るまでを紹介していく。自分で得ることができる知識は少ないため、元競輪選手への聞き取りを元に作成した。
第1章では、そもそもの競輪選手という職業について触れる。競輪というもの自体を知っている人は少ないと思うので、簡単に説明する。
第2章は競輪選手への入職方法である。競輪選手になるには競輪学校への入学が絶対であるが、それに必要な素質や能力について書いた。また、入学後の生活や学習内容についても書いている。
第3章では晴れて競輪選手になった後である。競輪選手の階級は完全に実力社会だが、その実力はどのようにして身につけていくのか。また、一流選手の競輪への姿勢についても書いた。
第4章では収入と引退について書いた。競輪選手の平均収入は非常に高額である、本当にそうなのか。また、多くのスポーツ選手が30代で引退を決意するのに対し、競輪では40代の選手もなんら珍しいことではない。どうなったら引退を決意するのか、またその後の人生はどうなっているか記した。
最後の5章に、1章から4章までを通じて感じたことを最後の5章に書いた。
講評  卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
 そこからが君たちの出発である。
 いくつかのコメントをしたい。
第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。
 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。

キーワード1 競輪
キーワード2 競輪選手
キーワード3 職業調査
キーワード4 聞き取り調査
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