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学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2013 |
ゼミ名 | 石田 光男 |
タイトル | 格差社会について |
内容 | この論文では、近年になってニュースやメディアでよく耳にする「格差社会」について取り上げる。 かつての日本は一億総中流社会と言われ、1980年代まで日本国民は貧富の差はなく、ほとんどの国民は中流であるという意識を持っていた。しかも、経済効率性と公平性(平等性)の双方を満たす国として世界に誇っていた。しかし、1980年代後半から所得配分の不平等化が進み、21世紀に入ってから貧富の格差がさらに広がっていった。国民全員が中流である、その時代は終わりに向かい、日本内で貧富の格差が拡大していることについて取り上げる。以前は格差がなかったが現在の日本は格差が広がっていることに興味を持った。また、格差といっても賃金格差、男女間格差、正規・非正規社員の格差など様々な格差について取りあげている。そして最後には、これからの日本について、格差社会とどう向き合うのか改善策や、格差の原因は高齢化が問題ではないのか、橘木俊あき氏の書籍に依拠して日本の格差社会について考察し最高する。 |
講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
キーワード1 | 格差社会 |
キーワード2 | 解決策 |
キーワード3 | 少子高齢化 |
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