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学科 産業関係学科
年度 2013
ゼミ名 石田 光男
タイトル 日本的雇用慣行の考察と国際比較
内容  「年功賃金」・「終身雇用」・「年功的昇進」・「企業別組合」・「新規学卒者同時期採用」
…日本の労働について学ぶなかで、頻繁に耳にすることばであり、これらは日本の雇用慣行を論じるのには欠かせない。日本の労働史のなかで、これらの理論はどのようにして生まれたのか。どのような変遷を経て、日本的雇用慣行となり、今日の理論にいたったのだろうか。日本の企業と労働者は経済を発展させ、日本的な雇用のルールを形成してきた。では、これらの雇用慣行はいったい、どのような点で日本的であるのだろうか。なにをもって日本的だと言えるのか。各慣行は他の慣行に影響し、相互作用しているのか。そして雇用の歴史の中で生まれた慣行は、労働者にどのような影響を与えるのかを述べていく。また、日本的雇用慣行とは日本特有のものなのか、海外には見られないものなのかどうかを、日本雇用のルールと海外のルールを国際比較しながら検証していく。
講評  卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
 そこからが君たちの出発である。
 いくつかのコメントをしたい。
 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
キーワード1 日本的雇用慣行
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