詳細 | |
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学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2013 |
ゼミ名 | 石田 光男 |
タイトル | 熊沢誠を知る |
内容 | 熊沢誠という一人の労働について興味を持つ著者の本を読んだ。私は心を惹かれその著者の本を読むことでその人の考え方を知りたいと思うようになった。今回、私は「日本の労働者像」という本を読むことで著者のメッセージを受け取りたいと思う。 「日本の組織労働者の人間像」を探るというテーマであるこの本はまずイギリス、アメリカの「離陸」(P9以下、熊沢1980よりの引用とする)=「ある労働者像による労働社会の構築」というものを通じてこの二国がどのような道を辿って行ったのかというものを説明する。またイギリスとアメリカが「分立」=「離陸を遂げた人々が独自の考え方を持ち、それは『国民の常識』と区別されている場合」という道をとったのに対して、日本が「融合」=「離陸を遂げた人々のものの考え方が取り残された人のそれから未分化で、両者の発想の区別があいまいなままにとどまる場合」という道をとったことに関して国民性と言う言葉で片付けずに別の何かが存在するものとして議論を展開していく。この本を読むことで日本の労働者像というのは「労働者」というより「経営者」と近しい存在のものであるということと、作者の想いとして組織労働者というものに既存の労使関係を変革する可能性を見いだしていることを自分なりに読みとった。 |
講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
キーワード1 | 離陸 |
キーワード2 | 分立 |
キーワード3 | 融合 |
キーワード4 | 労働組合 |
キーワード5 | |
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