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学科 産業関係学科
年度 2013
ゼミ名 三山 雅子
タイトル 児童虐待や子どもの貧困問題における社会的環境について
内容  児童虐待や子どもの貧困問題が本稿の研究課題である。子どもは自分の窮状を第三者に訴える力はない。そんな弱い立場にある子どもが、いまの日本で6人に1人の割合で貧困状態におかれている。OECD諸国、34カ国の中で、日本の一人親世帯の貧困率は4位、一人親世帯の子どもの貧困率は3位である。貧困のなかでも、一生懸命に働く父親や母親がいる。それでも子ども達は貧困におかれ、十分な教育や環境を与えられず、十分な職に就く機会が無く、貧困が継承されるという悪循環になってしまっている。
 貧困の中で起きる虐待事件の発生件数は増加の一途をたどっている。虐待と貧困の関係性はいったいどのようなところにあるのか。大阪児童置き去り事件などの具体的な事件を例に挙げながら述べていく。
 政策の不備を論じるだけでなく、国民もすべての子どもに最低限の機会や環境を保証するように意識を変えていかねばならない。地域の取り組みによる虐待防止策などもまとめている。国の未来を作るのは子ども達である。より良い未来のためには、子ども達に十分な発達と教育の機会が与えられねばならない。
 
講評  介護現場への外国人労働者の受け入れ、日本に適した成果主義とは、日本農業とTPP、過労死や長時間労働、教育格差、児童虐待と貧困保育サービスの拡充と保育士の労働、中国の人事システム、大学教育の質向上と構造改革等、今年も卒論のテーマはさまざまであった。テーマはさまざまであるけれど、どの卒論も書いた学生にとっては、そのテーマを選ぶ必然性があるものである事は、卒論授業を通して感じていた。つまりゼミ生の今という時代に対するアンテナは確かに鋭敏なのである。
 しかし、必然的に掲げられたテーマについてどれだけ迫り得たかというと、やはり今年も二極分化していたと思う。毎年、私のゼミではEVE前に卒論の草稿を提出してもらう。その時点で、ネットに漂っている情報を適当にまとめて卒論にしたものとある程度文献にあたって、文献と格闘しながら書いたものに分かれていた。つまり卒論にかけた時間が全く違っていた。つまり、テーマに対する本気度が異なっているように見受けられた。
 なぜこうなってしまうのか。それはやはり学ぶという事に対する浅薄な理解の故ではないかと思う。これは、つまりはそのようなゼミの時間しか皆さんと共有できなかった私の自戒にも他ならないのだが、学ぶことは各種の試験を突破するためであって、どうも働き生きていくこの自分とは無関係と思われているように見える。しかし、学ぶ事は働き生きていく上での最大の武器なのだ。
 皆さんが卒論に取り組み始めた頃に、3年ほど前に卒業したゼミ生が訪ねて来てくれた。彼が担当しているのは京都の中心部の再開発である。中心部の再活性化には女の人がとにかく来てくれる、住んでくれる町にしなければいけないが、なにかそのヒントになる事はないかだろうかといって、会いに来てくれたのだ。その時、彼は手ぶらで来たのではなかった。自分なりに調べたデータをまとめたレジュメを手に現れた。彼が言うには、町の開発には感性が必要であることは間違いないけど、これだっという感覚を説得的に他者に伝えるには論理、つまりデータが必要不可欠だからだそうだ。
 彼の作ったレジュメをみた時、産業関係実習での発表と似たことをしているのだと思った。もちろん単なる発表ではない。それによって組織が動き、お金が投下され、事実として町が変わる。そういう意味では学校の勉強とは違う。しかし、そこで彼が使用している手法は間違いなく大学で身につけた事と重なっていた。
 
キーワード1 子どもの貧困
キーワード2 児童虐待
キーワード3 母子家庭
キーワード4 女性の労働
キーワード5  
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