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学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2013 |
ゼミ名 | 三山 雅子 |
タイトル | 過労死の原因とそれを防ぐには |
内容 | 過労死・過労自殺が社会問題となっている。そのような中これから社会人として働く上でこれについて知っておくべき、考え直すべきだと思ったことがきっかけで、卒業論文のテーマとした。過労死・過労自殺は被災者の無念さだけでなく、残された家族までもが大変な思いを抱え込んでしまう。だが労災を認定させるには日本の労働組合が弱いこともあり、一労働者が対抗するにはかなりの労力を要する。また日本の労働組合が弱いことで、利益追求主義の企業の言いなりとなって働かざるを得ない状況に追い込まれている。この問題は日本の労務システムに原因の根源がある。この原因を解決するには、仕事領域をあいまいとした今の日本型のシステムではなく、仕事領域の明瞭とした欧米の職務システムを取り入れていくことによって解決出来るという結論に至った。だが労務システムを変えていくにはかなりの労力と時間がかかるため、まず個人の力で防げることから始めていくことが必要である。 |
講評 | 介護現場への外国人労働者の受け入れ、日本に適した成果主義とは、日本農業とTPP、過労死や長時間労働、教育格差、児童虐待と貧困保育サービスの拡充と保育士の労働、中国の人事システム、大学教育の質向上と構造改革等、今年も卒論のテーマはさまざまであった。テーマはさまざまであるけれど、どの卒論も書いた学生にとっては、そのテーマを選ぶ必然性があるものである事は、卒論授業を通して感じていた。つまりゼミ生の今という時代に対するアンテナは確かに鋭敏なのである。 しかし、必然的に掲げられたテーマについてどれだけ迫り得たかというと、やはり今年も二極分化していたと思う。毎年、私のゼミではEVE前に卒論の草稿を提出してもらう。その時点で、ネットに漂っている情報を適当にまとめて卒論にしたものとある程度文献にあたって、文献と格闘しながら書いたものに分かれていた。つまり卒論にかけた時間が全く違っていた。つまり、テーマに対する本気度が異なっているように見受けられた。 なぜこうなってしまうのか。それはやはり学ぶという事に対する浅薄な理解の故ではないかと思う。これは、つまりはそのようなゼミの時間しか皆さんと共有できなかった私の自戒にも他ならないのだが、学ぶことは各種の試験を突破するためであって、どうも働き生きていくこの自分とは無関係と思われているように見える。しかし、学ぶ事は働き生きていく上での最大の武器なのだ。 皆さんが卒論に取り組み始めた頃に、3年ほど前に卒業したゼミ生が訪ねて来てくれた。彼が担当しているのは京都の中心部の再開発である。中心部の再活性化には女の人がとにかく来てくれる、住んでくれる町にしなければいけないが、なにかそのヒントになる事はないかだろうかといって、会いに来てくれたのだ。その時、彼は手ぶらで来たのではなかった。自分なりに調べたデータをまとめたレジュメを手に現れた。彼が言うには、町の開発には感性が必要であることは間違いないけど、これだっという感覚を説得的に他者に伝えるには論理、つまりデータが必要不可欠だからだそうだ。 彼の作ったレジュメをみた時、産業関係実習での発表と似たことをしているのだと思った。もちろん単なる発表ではない。それによって組織が動き、お金が投下され、事実として町が変わる。そういう意味では学校の勉強とは違う。しかし、そこで彼が使用している手法は間違いなく大学で身につけた事と重なっていた。 |
キーワード1 | 長時間労働 |
キーワード2 | 労務システム |
キーワード3 | 日本型職務構造 |
キーワード4 | メランコリー親和型 |
キーワード5 | |
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