詳細 | |
---|---|
学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2013 |
ゼミ名 | 三山 雅子 |
タイトル | 教育と格差について考える~フィンランド教育から学ぶべきもの~ |
内容 | 本論文では、「日本の教育」を焦点とし、日本の教育の中でも大きな問題であると言われる教育格差の問題に迫った。本稿はこの点を、教育格差が非常に小さく、また世界一の学力と評される「フィンランド教育」に日本の教育が何を学ぶべきかという点から解明している。 第一章では、日本の公的教育支出費が教育先進国のみならず各国と比べても極端に少ないというデータを用いて日本の現実の教育格差について考察している。第二章では、フィンランドの教育制度、教育メソッドを考察し、学校間格差や各国の教育機関への公財政支出の対GDP比のデータを用いながら、フィンランド教育が世界一と評される理由に迫った。第三章では日本の教育が学ぶべきものとして、「公的教育支出費の重要性」「学びの転換」「アウトプット教育への転換」の3つを挙げ、今の日本に何が不足しているのかを深く考察している。 フィンランドから学ぶべきものを学び、「今ある教育をさらに良くするために教育を変革する」という強い信念を教育現場だけが持つのではなく、周りの大人や地域社会が共通して持つ事で、きっと今後の日本教育がフィンランド教育にも負けないものになっていくであろう。 |
講評 | 介護現場への外国人労働者の受け入れ、日本に適した成果主義とは、日本農業とTPP、過労死や長時間労働、教育格差、児童虐待と貧困保育サービスの拡充と保育士の労働、中国の人事システム、大学教育の質向上と構造改革等、今年も卒論のテーマはさまざまであった。テーマはさまざまであるけれど、どの卒論も書いた学生にとっては、そのテーマを選ぶ必然性があるものである事は、卒論授業を通して感じていた。つまりゼミ生の今という時代に対するアンテナは確かに鋭敏なのである。 しかし、必然的に掲げられたテーマについてどれだけ迫り得たかというと、やはり今年も二極分化していたと思う。毎年、私のゼミではEVE前に卒論の草稿を提出してもらう。その時点で、ネットに漂っている情報を適当にまとめて卒論にしたものとある程度文献にあたって、文献と格闘しながら書いたものに分かれていた。つまり卒論にかけた時間が全く違っていた。つまり、テーマに対する本気度が異なっているように見受けられた。 なぜこうなってしまうのか。それはやはり学ぶという事に対する浅薄な理解の故ではないかと思う。これは、つまりはそのようなゼミの時間しか皆さんと共有できなかった私の自戒にも他ならないのだが、学ぶことは各種の試験を突破するためであって、どうも働き生きていくこの自分とは無関係と思われているように見える。しかし、学ぶ事は働き生きていく上での最大の武器なのだ。 皆さんが卒論に取り組み始めた頃に、3年ほど前に卒業したゼミ生が訪ねて来てくれた。彼が担当しているのは京都の中心部の再開発である。中心部の再活性化には女の人がとにかく来てくれる、住んでくれる町にしなければいけないが、なにかそのヒントになる事はないかだろうかといって、会いに来てくれたのだ。その時、彼は手ぶらで来たのではなかった。自分なりに調べたデータをまとめたレジュメを手に現れた。彼が言うには、町の開発には感性が必要であることは間違いないけど、これだっという感覚を説得的に他者に伝えるには論理、つまりデータが必要不可欠だからだそうだ。 彼の作ったレジュメをみた時、産業関係実習での発表と似たことをしているのだと思った。もちろん単なる発表ではない。それによって組織が動き、お金が投下され、事実として町が変わる。そういう意味では学校の勉強とは違う。しかし、そこで彼が使用している手法は間違いなく大学で身につけた事と重なっていた。 |
キーワード1 | 教育格差 |
キーワード2 | フィンランド教育 |
キーワード3 | 公的教育支出費 |
キーワード4 | |
キーワード5 | |
戻 る |