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学科 産業関係学科
年度 2013
ゼミ名 三山 雅子
タイトル 介護現場への外国人労働者の受け入れについて
内容  本論文では、日本における介護現場における外国人労働者の受け入れについて議論する。我が国が直面している介護現場の労働力不足の問題の背景には、高齢化による要介護者の増加に加えて、予想以上に長期化した少子化および団塊の世代の労働市場からの引退によって労働力人口が減少し始めたことがある。この急速に進む労働力人口減少の中で、経済のグローバリゼーションの波を受け、東アジア地域の経済発展のための連携協定の下、日本で初めて看護士や介護福祉士などの国際的な「人の移動」が始まることになった。そこで、外国人介護士の現行の取り扱いや政策の動向、需給を見通し、現場で働く外国人の賛否を挙げた上で現行の問題点や改善策について提案する。EPAによる外国人労働者の受け入れの条件について変更を提案する。それは、訪日前の日本語レベルと日本文化への理解度を引き上げ、訪日後は在日するための必要要件を引き下げるということである。
講評  介護現場への外国人労働者の受け入れ、日本に適した成果主義とは、日本農業とTPP、過労死や長時間労働、教育格差、児童虐待と貧困保育サービスの拡充と保育士の労働、中国の人事システム、大学教育の質向上と構造改革等、今年も卒論のテーマはさまざまであった。テーマはさまざまであるけれど、どの卒論も書いた学生にとっては、そのテーマを選ぶ必然性があるものである事は、卒論授業を通して感じていた。つまりゼミ生の今という時代に対するアンテナは確かに鋭敏なのである。
 しかし、必然的に掲げられたテーマについてどれだけ迫り得たかというと、やはり今年も二極分化していたと思う。毎年、私のゼミではEVE前に卒論の草稿を提出してもらう。その時点で、ネットに漂っている情報を適当にまとめて卒論にしたものとある程度文献にあたって、文献と格闘しながら書いたものに分かれていた。つまり卒論にかけた時間が全く違っていた。つまり、テーマに対する本気度が異なっているように見受けられた。
 なぜこうなってしまうのか。それはやはり学ぶという事に対する浅薄な理解の故ではないかと思う。これは、つまりはそのようなゼミの時間しか皆さんと共有できなかった私の自戒にも他ならないのだが、学ぶことは各種の試験を突破するためであって、どうも働き生きていくこの自分とは無関係と思われているように見える。しかし、学ぶ事は働き生きていく上での最大の武器なのだ。
 皆さんが卒論に取り組み始めた頃に、3年ほど前に卒業したゼミ生が訪ねて来てくれた。彼が担当しているのは京都の中心部の再開発である。中心部の再活性化には女の人がとにかく来てくれる、住んでくれる町にしなければいけないが、なにかそのヒントになる事はないかだろうかといって、会いに来てくれたのだ。その時、彼は手ぶらで来たのではなかった。自分なりに調べたデータをまとめたレジュメを手に現れた。彼が言うには、町の開発には感性が必要であることは間違いないけど、これだっという感覚を説得的に他者に伝えるには論理、つまりデータが必要不可欠だからだそうだ。
 彼の作ったレジュメをみた時、産業関係実習での発表と似たことをしているのだと思った。もちろん単なる発表ではない。それによって組織が動き、お金が投下され、事実として町が変わる。そういう意味では学校の勉強とは違う。しかし、そこで彼が使用している手法は間違いなく大学で身につけた事と重なっていた。
 
キーワード1 少子高齢化
キーワード2 グローバル化
キーワード3 外国人介護・看護候補者
キーワード4 介護福祉士
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