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学科 産業関係学科
年度 2014
ゼミ名 石田 光男
タイトル グローバル化が国内労働市場に与える影響
内容 1990年代後半から2000年代初頭にかけて、「グローバル化」や「グローバリゼーション」という言葉を頻繁に耳にするようになった。日本では、1990年代末以降、長引く不況の中での失業率の悪化や賃金の低下、派遣労働など非正規労働者の増加を背景に、所得格差問題が注目されてきた。このように、経済のグローバル化が労働者の雇用や賃金に与える影響は、非常に関心の高いテーマであると考える。本論文で明らかにしたいことは、3つある。1つ目は、過度なグローバル化は労働者の賃金を引き下げること、2つ目に、雇用の不安定化を招いてしまうこと、そして最後に、格差を拡大させてしまうことである。本論文においては、この3つの問いに対して現在の状況と関連付けて述べた。グローバル化が進展してきた背景から現在の状況を顧みて、行き過ぎたグローバル化の危険性について考察した。今後の日本は、グローバル市場での競争を中心にするのか、それとも内需中心の賃金主導型の経済成長を目指すのか、しっかりと目を向けていきたい。
講評 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
そこからが君たちの出発である。
いくつかのコメントをしたい。
第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。
 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
 
キーワード1 グローバル化
キーワード2 賃金の低下
キーワード3 新自由主義
キーワード4 労働市場改革
キーワード5 格差の拡大
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