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学科 産業関係学科
年度 2014
ゼミ名 石田 光男
タイトル シンガポールの外国人受け入れ政策 シンガポールはなぜ移民先進国となったのか
内容 私は大学2年生時に、シンガポールへひとり旅をした。実際に滞在してみると、小さい都市の中で予想以上に多様な民族、人種が生活していることに衝撃を受けた。この経験から、卒業論文において、シンガポールの外国人受け入れ政策について考察することとした。現在シンガポールでは、人口の約29%を外国人滞在者が占める。永住者数を外国人滞在者数と合わせると人口の約39%が外国人となる。なぜこれほど多くの外国人を受け入れることが可能となったのか、本文で考察していく。第1章では、国の概要について記し、多民族国家という特徴などに言及している。第2章では、シンガポールの歴史を考察し、多民族国家誕生への経緯を明らかにしている。第3章では、外国人受け入れ政策の特徴について、外資企業や外国人労働者を受け入れてきた背景や外国人労働者に対する管理制度などについて言及している。第4章では、近年生じている外国人受け入れ政策に対する課題や今後について考察している。
講評 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
そこからが君たちの出発である。
いくつかのコメントをしたい。
第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。
 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
 
キーワード1 シンガポール
キーワード2 多民族社会
キーワード3 外国人労働者
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