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学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2014 |
ゼミ名 | 石田 光男 |
タイトル | 日本における子供の貧困(機会と結果の不平等) |
内容 | 現在、日本の子供の貧困は深刻な状況にある。一見しただけではそこに貧困があるかどうか判断できないため、これまで世間の関心は薄かった。しかし、日本の相対的貧困率が約15%と国際的にみても高い数値であることが分かり、世間の注目を集める社会問題として認識された。貧困家庭で育つ子供は単に経済的に貧しいというだけでなく、学力、健康の面で様々な不利がある。また、経済的貧困に伴って起こる児童虐待や一人親世帯の貧困率の異常な高さなど問題は山積している。そのような状況に陥った人々を援助する制度は存在するが、全ての問題に対応しきれているとは言えず、自治体によって制度運用の格差があるなど政府や自治体の体制にも改善の余地がある。さらに、子供の貧困問題に関連してよく議論される一人親世帯についても、日本の一人親世帯は非常に高いことが知られており、日本の一人親世帯は子育てや収入などの面で非常に苦しい生活を強いられていることが分かった。それらを通じて貧困層の家庭に育つ位子供が背負う不利が感じられた。子供の貧困問題の一番の大きな問題は貧困が連鎖する問題であるが、様々な要素が絡まる複雑な問題であり、根本的解決は難しい。 |
講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
キーワード1 | 貧困 |
キーワード2 | 児童虐待 |
キーワード3 | 一人親世帯 |
キーワード4 | 教育格差 |
キーワード5 | |
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