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学科 産業関係学科
年度 2018
ゼミ名 石田 光男
タイトル 『GMの経験』から石田光男を読み解く
内容 本論文は産業関係学の権威である石田光男氏の著書である『GMの経験』から個人的に気にかかった部分の引用を行いそれに対して論評を行うことによって氏の考えについて理解を深めようとするものである。
最初に自らの学生生活や就職活動や私生活等の個人的な事情に触れ, 『GMの経験』を読み, 氏の考えを理解することによってどのようにして自らの人生のためにするかを述べる。
次に『GMの経験』の第1章の論評を行う。ここでは石田氏の「わかり方」へのこだわりが分かり, 調査で分かったことについてどのような理解が成されてきたかについて述べられていることが分かった。ここでは石田氏に行ったインタビューの内容が用いられる。
最後に『GMの経験』のあとがきの論評を行う。ここでは石田氏が何故それほどまでに「わかり方」へのこだわりを持つのかについて語られ, 次いでアメリカの工場を見たことで日本人の「心ばえ」への自覚に至る。
講評 1.「『GMの経験』から石田光男を読み解く」は「はじめに」がいい。こういう風に自らを語れる君を見て喜ばしく思った。
2.全体の講評。
卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
 そこからが君たちの出発である。
 いくつかのコメントをしたい。
第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。
 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
キーワード1 『GMの経験』
キーワード2 「わかり方」
キーワード3 「心ばえ」
キーワード4  
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