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学科 産業関係学科
年度 2018
ゼミ名 石田 光男
タイトル 女性労働者の労働環境と企業思考について
内容 本論文は女性労働者ととそれを取り巻く環境について、戦後から現代にかけてのその変化と背景を明確にし自らの考察へと繋げる展開となっている。
2章ではこれまでの女性労働者を取り巻く環境の変遷についてまとめている。ここで大まかな流れを確認したのち、3章では女性像について言及している。男女格差の歴史はどうなっているのか、またその背景には何があるのか、これらのことを2、3章を通じて考察した。また4、5章では現代における女性労働者とその雇用主である企業とに焦点をあて、それぞれの先行研究や統計データを基に今なお続く男女格差への理解を深めている。就業率や管理職率など、女性労働者の社会進出がどこまで押されているのか、また滞っているのか、その原因となる企業の女性に対する考えとはどういったものなのか。それらについての実状をまとめ、6章の考察へとつなげている。
なお、本論文での私の最終的な意見は女性労働者の差別というものは利潤を追及する姿勢においてかなりの不都合がある行為なのではないかという考察に至った。
講評 1.「女性労働者の労働環境と企業思考について」は女性活用施策と利益率の関係を何とか考えようとして苦労した論文である。これは人事施策と業績とのリンクという学問上の大問題なのである。そういう問題に直面し、この問題の解き方は難しそうだと気付けばよい。
2.全体の講評。
卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
 そこからが君たちの出発である。
 いくつかのコメントをしたい。
第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。
 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
キーワード1 女性労働者
キーワード2 男女格差
キーワード3 性別役割分業
キーワード4 男女雇用機会均等法
キーワード5  
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