詳細 | |
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学科 | 産業関係学科 |
年度 | 2021 |
ゼミ名 | 三山 雅子 |
タイトル | 教育格差の世代を越えた再生産 |
内容 | 本稿は、近年社会問題化している子供の学力格差に着目し、その要因の一つとして考えられる子供の貧困の実態を明らかにすることを目的としている。子供が貧困状態に陥っているということは、同様にその親も貧困状態にあると考えられる。本稿では、貧困状態の割合が高いと考えられるひとり親世帯、生活保護世帯、児童養護施設を利用する世帯の親の就労状況を、各種文献やデータをもとに分析し、就労と貧困の関係性を考察した。子供を持つ貧困世帯は、その厳しい経済事情により、子育てに回すお金や時間が周囲の世帯よりも不足し、その結果として学力格差が生じると考えられる。しかし、子供の教育格差を改善することは困難であり、教育格差は世代を超えて再生産されてしまう。その理由として考えられるのは、子供時代の貧困経験による影響が大人になっても継続することや、学歴が親子間で連鎖・継承されることだ。子供の教育格差は、親の就労や教育などの問題が複合的に絡む課題であり、格差を改善することは困難になるが、社会全体として対策に乗り出すことが求められている。 |
講評 | 卒論を読んで第一に感じたことは、卒論が二極化しているということである。卒論執筆者本人が知りたい、解決したいと考えているテーマを扱っている卒論は、テーマ決定に手間取っても、一度テーマが決まったならば進捗は早かった。もちろん、卒論検討のゼミでは、それでもここはなぜこう考えるのかとか、こういった視点から考察した方よいのではないかなど、指摘すべきことは多々あった。しかし、執筆者本人が切実さをもって書いている卒論は、このように執筆者本人と教員とのあいだで卒論を通して対話することが可能であった。それに対し、なぜそのテーマをとりあげるのか、テーマ決定があいまいである場合は、進捗が遅いのみならず、手軽にアクセスできる文献にあたり、一通りまとめるのみで終わりがちで、内容以前の問題をクリアーすることに時間を取られていた。 どうしてこのような違いが生じるのか。はやはり、大学で学ぶということに対する卒論執筆者本人の向き合い方の違いを反映しているのであろう。学ぶことをあくまでも机上のことと考えるか、机上で知ったことが他ならぬこの自分に降りかかることでもあると認識するかの違いである。皆さんには知ることは自分を守ることでもあることを知っておいてほしいと思う。 辛口の講評を書き連ねてしまった。しかし卒論を読むと、若いということ、新しい時代しか知らないということはリスクはあるものの、中高年はもはや持ち得ていない高感度のアンテナを保有していることでもあるということを、強く感じさせられもした。今年の卒論では、親ガチャやメンバーシップ型雇用に付きものの転勤、女子学生が一般職を進んで希望すること、オンライン勤務、奨学金問題等が取り上げられていた。まさに今、社会を揺るがしている問題ばかりである。こういった事柄をテーマとして設定する点に、今の20代のアンテナが現れていると思う。ともあれ皆さんの未来が光に満ち溢れていることを強く願っている。 |
キーワード1 | 教育格差 |
キーワード2 | 子どもの貧困 |
キーワード3 | 学歴 |
キーワード4 | 就労 |
キーワード5 | |
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