少子化に伴う大学入学者の減少から、全国の大学では様々な工夫をこらして、生き残りをはかろうとしています。また、大学設置に関する規制の緩和もあり、どの大学でも社会的ニーズに対応するために、従来の学問領域を超えた多様な学部や学科を開設する傾向が強まりました。このような大学の量的な拡大は、分数計算の出来ない大学生や、文章が書けない大学生など、大学生の質的低下を招く結果となり ました。他方で、大学教育のグローバルスタンダード化が唱えられ、様々な改革が進行しています。そのなかでも、大学間の国際競争力を高めるために、大学教育の質的な保障、つまり「学士力」をどのように保障するのかという事が大きな課題として登場してきています。簡単に言いますと、大学卒業に相応しい能力をどのように身につけさせるのかということです。
社会学部では社会現象を正確に観察し、客観的に分析し、そこに生じた課題を解決する能力を養うことを教育の目的としていますが、こうした能力を養うためには「読む力、書く力、聞く力、話す力」を高める必要があります。大学教育の質を高めるための FD,いわゆる教員の教授能力に関しては様々な取り組みがなされてきました。しかし、「学問」は果たして一方的な教えによって獲得されるものでしょうか。講義で得た一片の知識よりも、学生たちが主体的に取り組んで学び得たものが大きな力になることはいうまでもありません。社会学部ではこうした課題と取り組み、「相互啓発による創造的学力育成カリキュラム」を提案して、文部科学省の教育GP(大学改革推進事業)に選定されました。これは、新入生を始め下級生の学習活動に上級生が参加することによって、相互に学び合いながら、学生たちが主体的に講義に取り組み「読む力、書く力、聞く力、話す力」を高めようとするものであります。
かつての大学では読書会や研究会が学生の自主的な活動の一環として頻繁に見られましたが、大学の大衆化とともに、大学での学びが単に大学を卒業するためだけの単位稼ぎに終始するという現象も現れました。そうした集団作りを講義の中に取り込むことによって、一方的な「教え」から主体的な「学び」へと展開し、学生の学ぼうとするモチベーションを高めて、個々の専門を深める事を狙いとしています。また、学生自身の相互啓発から大学に対するアイデンティテーが生み出され、大学の教育理念である「良心教育」が浸透し、個々の学生の誇りと自信に繋がることを期待しています。
2009年4月1日
社会学部長
沖田行司
いま、教育の質の向上が問われています。
全国の大学は学部の研究教育目的を明記することを行っています。私たちの社会学部でも、「教育研究目的」を定めています。研究の目的は「社会事象の丁寧な観察と客観的な分析」であり、教育の目的は「社会事象を正確に観察する能力、事象を説明する理論的枠組みの是非を考究し論ずる能力の養成」となっています。しかし、もっとも言いたいことは、そうした「能力養成の基盤になる、読み書き話し聞く力、計算する力を高めること」にあります。この基礎的能力を格段に高めることに学部教育は全力を注入し続ける必要があります。
新島襄は、しかし、「教育とは人の能力を発達せしむるのみに止まらず、総べての能力を円満に発達せしむることを期せざる可からず、如何に学術技芸に長じたりとも、其人物にして、薄志弱行の人たらば、決して一国の命運を負担す可き人物と云う可からず」(同志社大学設立の旨意)と述べています。徳育に結実しない教育は駄目だというのです。ここが枢要です。
徳育とはいかになされるべきなのか。
社会学部では、上記の「教育研究目的」とともに、「人材養成の指針」を定めています。少しかみ砕いて表現しています。「 風評によってではなく良識に基づいた行動、他者と協力しつつ自分の持ち味を発揮する知恵、日々の平凡な努力の積み重ねを大切にする習慣、どんなに難しい理論書もしっかり読み論じ合えば分かるという気概、他者が嫌がることも正しければ進んで行う勇気、こういう人間としての基本を身につけた人材を養成する。」と。
それを総ての個々の科目で私たち教員は妥協のない課題を課すこと、教員、学生お互いの甘えや怠惰を戒め合うこと、何の打算もなく、しっかり考え、論じ合うことのすがすがしさを味わうこと、それを私たちの習慣にすること、こういう「平凡の非凡」とでも言うべき実践の中からしか、とはいえ、それもさりげなくというかたちでしか、徳育は芽生えないと信じています。
このたび、社会学部の「相互啓発による創造的学力育成カリキュラム」が、文部科学省の教育GP(大学改革推進事業)に選定されました。この場をお借りしてご報告するとともに、皆様のご理解、ご協力をいただきたく存じます。
2008年12月
(前)社会学部長 石田 光男