創造教育 活動報告

被災学生と「大震災と原発事故とマスメディア」テーマに討論

メディア学科・浅野ゼミが宮城学院女子大・新免ゼミと

参加者:浅野ゼミ(2・3・4年、院生の計16人)
宮城女子学院大学新免ゼミ(学生5名 院生2名)

同志社大学メディア学科・浅野健一ゼミの学生(3年中心の学部生、院生の計17人)は教育GP制度を利用し、8月12日午後、仙台市青葉区の宮城学院女子大学学芸学部人間文化学科・新免貢ゼミの院生2名と学部生5名の計7人との討論・交流会を行った。
浅野ゼミ(3年、18期)は4月から2年間の予定で、「東日本大震災と東電原発事故とメディア」をテーマに共同研究を始めた。東北で実際に被災した学生がマスメディア報道についてどう考えているかを聞くため、GP旅費補助制度を使った交流会を計画した。その際、社会福祉学科のマーサ・メンセンディーク教授が実兄ジェフリー・メンセンディーク先生(日本基督教団東北教区宣教師、宮城学院女子大学非常勤講師)の紹介で、新免教授に依頼して、今回のゼミ討論・交流会が実現した。
浅野ゼミの学生・院生17人は東北で実際に被災地を見ようと、学部生・院生の計16人が8月10日から15日まで東北と東京で調査合宿を行った。岩手(盛岡・宮古・陸前高田)、 宮城(仙台・石巻)などで、現地で取材した記者、自治体関係者、被災者、ボランティア活動家などに会った。14日夜には菅直人首相の広報担当者の下村健一・内閣広報室審議官にインタビューした。
宮城学院女子大学で開かれた討論会では、浅野ゼミがこれまでの研究の概要を説明し、新免ゼミの学生たちの被災体験・メディア観を聞く形で行われた。教育GP制度でこのような交流会を開く機会を与えていただいた本学社会学部と、宮城学院女子大学の新免先生とゼミ学生の皆さんに心から感謝したい。

以下は、討論会の報告である。

◊ 【浅野ゼミ3年・入江 貴弘】

8月12日(金)午後1時半から4時すぎまで、宮城学院女子大学キャンパスの講義館C301教室で、同志社大学 浅野ゼミと宮城学院女子大学新免貢ゼミ生による討論会が行われた。浅野ゼミからは17人が参加し、新免ゼミ側からは院生2人と学部生を加えた7人が参加した。私たちは仙台市街からバスで大学まで向かった。
宮城学院女子大学は市街地から北へ15分ほどの場所に位置する大きな大学であった。正門からはすぐに大きなキャンパスが目に入る。キャンパス内の校舎はどれもレンガ風に統一され、どれもまだ新しさが残っていた。案内された教室はフローリングの床に中学や高校時代よく見覚えのある机と椅子が並んでいた。
机を長方形に囲んで向かい合う形で座り、まずは学生同士の自己紹介を終えた後、新免先生と浅野先生がそれぞれの略歴や研究について話した。
新免先生は大学でキリスト教学や宗教学など人間に関わることを教えており、ゼミでは社会の中での「暴力」をテーマにしている。新免先生は3.11以降に海外メディアの震災に関する報道がどのようなものである早い段階から研究してそのため、「マスメディアのあり方」に関する話題は普段からゼミ生に問題を提起していたそうだ。
新免先生は1995年に起きた阪神淡路大震災の時から活動をされており、当時先生の心の中にこみ上げてきた怒り―這いつくばって生きている人間が死に、偉そうなことを言っている人間が生きる―これが、現在の新免先生の学問研究や物事の考え方の基本なっているという。「様々な活動を通して世の中を批判的に見る癖がついているので、そのような点から浅野ゼミ生と交流ができれば幸いだ」と述べた。
震災とマスメディアに関連する話としては、河北新報の記事と福島民報の社説を取り上げた。第五福竜丸事件以後アメリカによって原子力政策が日本で推進された事を書いた河北新報の記事と、「費用など気にすることなく、請求書は国に回してやればいい。耐える姿が賞賛される時期は過ぎた。被災地自らが動き、声を上げねばなるまい」という厳しい目線の福島民報の社説を取り上げて、地元メディアを評価した。その一方で、大手メディアに関しては「親や親族や家を無くし、どうやって立ち直ることができるのか。地震は貧乏をさらに貧乏にする。『東北がんばれ』『がんばれ日本』の一本槍ではなく、人間の現実に近い情報を効果的に伝える事が必要である」と指摘した。その上で、頭のいい学者が集まって考えた"論理"だけではなく、『学校に行けない』『貧乏である』とはどういうものであるかという"想像力"を広げることこそが被災地とマスコミや私たちを結びつける要因になると指摘した。
浅野先生は、原発に対するマスメディアの取材と報道の姿勢を批判した。先生自身も昔から原発反対の運動に参加しており、「当時からの仲間である小出裕章氏や広瀬隆氏らが今脚光を浴びるのが嬉しいと同時に、悲しくもある」と述べた。今回の福島の事態は事故ではなく、政府、東電(経団連)、御用学者、労組が共謀して起した「事件」なのに、新聞、テレビに葉そうした視点が皆無で、特に事件発生から1カ月の報道は、「大本営発表」報道と酷似していると強調した。「原発を54基も作ってきたのは、米国型の新自由主義に象徴される日本の戦後の歩み総体の結果であり、乗り越えるためには、政治経済社会からのコペルニクス的転回が必要である」と指摘した。
また、交流会には日本基督教団兵庫区から派遣され、福島県でボランティア活動をされている庄司宜充氏も来られた。庄司氏は新免先生の古くからの知り合いで、現在は毎日のように福島県内の被災地を訪ね回り、住民や原発作業に従事している人たちに手作りのパンを配り、また折り紙のバラを渡しているそうだ。
続いて、宮城学院女子大学の学生からそれぞれの震災体験を語ってもらった。

◊宮城学院女子大学の学生からそれぞれの震災体験

震災当時、新免ゼミ生の2名が福島に、4名は仙台市内にいた。
学生たちからはワンセグやtwitterを使い生活情報を入手したという声が多かった。水はひねれば出たそうだが、電機やガスは復旧まで三日ほど時間を要した。仙台で被災した大学院生の野村さんは、「電気やネットのライフラインが止まり、水やガスも使えない状況で孤立感を味わった」そうだ。しかし野村さんは、当時付けていた日記を見て振り返りながら、「様々な困難はあったが、お酒を飲んだり友人と話したりそれなりに満喫していた」とも話していた。
震災直後は食料価格も高騰した。500ミリのペットボトルが500円、お菓子2~3品で3000円ほどの物価になったそうだ。3時間並んで、お一人様5品までしか買えない状況で、一体何を選ぶか非常に悩んだそうだ。介護が必要な方へはオムツの代わりにキッチンペーパーを購入するなど知恵が必要であった。
同じく仙台市内で被災した3年生の相馬唯さんは、「家の中の掃除をしたいので」とインターホンを押して訪問してきた人がいたと語った。Twitterで、不審者に注意するようにと知っていたのでお断りしたそうだが、怖かったと述べた。普段鍵をしていない叔母の家も金銭は盗まれていなかったが誰かが入った形跡があり、「不安に思った」とも述べた。夕方からは生協でアルバイトに行ったが、レジが停電で使えないために店先で手売りをしたそうだ。
4回生の渡邊さんもまた仙台市内にいたが、井戸水が入手できる事を知っていたため、確保には困らなかったそうだ。しかし、「入れる容器が無い場合やまた女性は汲んだ水を運ぶのが困難である」と話した。
4回生の菅野智子さんは福島市内で就職活動の説明会途中に被災した。スーツを着た学生達は地震発生後しばらくは行儀よく座っていた。揺れが収まって少ししてから、とある男子学生が「みんな隠れるんだ」と発した言葉で皆一斉に動き始めたと述べた。
石巻市籬(まがき)地区に実家がある遠藤さんは祖父母と母親を津波で亡くしたそうだ。山の麓の籬地区は追波川に面した場所に位置している。北上川から海へ分岐している支流の川であるが、なんと淀川の3倍ほどの太さで川沿いには堤防が建てられている。震災直後、各家庭内では部屋の片付けを行い、また電気やガスが止まっていたため、住民達は公民館に集まり炊き出しの予定を立てていた。男性は仕事で地区にいなかったので、女性や学生や高齢者の方が主にいたそうだ。停電によって、防災無線が使えず津波警報を聞くことはなかった。「津波が来るのでは」という話もあったが、大丈夫だろうとその場にいたそうだ。
堤防を見てきた叔父さんは、第一波はそれほどではなかったが、津波の第二波・第三波が非常に高かったので公民館へ知らせに行き、そして各自自宅へ荷物や車を取りに帰る最中津波が来たそうだ。
隣の釜谷地区では車で津波が来るとアナウンスがあったが、避難先の大川小は学校にいた小学生と、避難に来たお年寄りの方々と小学生を心配し駆けつけた親たちで混雑していた。そして、震災から約一時間後の避難の最中に津波が到達したそうだ。
津波によって川沿いの二地区はほとんどが流された。籬地区は遠藤さんの家を含めた四軒の二階部分だけが残り、釜谷地区では鉄骨でできた医院と大川小学校のみが残った。釜谷地区は山が近いので堤防を越えてきた波が山にぶつかり、山から再び堤防側へ波が戻り、繰り返し激しい波が押し寄せた。そのため、遺体の捜索も困難であった。遠藤さんの友人の自宅は築2~4年の新しい家であったが、全壊したそうだ。
翌日からは消防団・警察官・自衛隊・一般市民が遺体の捜索を始めた。発見された遺体一時安置所として高校へまず送られた。ここでは身元不明者の確認と検死が行われた。確認された遺体は二次安置所へ送られ、納棺が行われる。震災直後で物も無いので、少しの菊の花束と食べ物と思い出の品をお供えしてもらうそうだ。お経をあげてもらうこともできたそうだ。葬儀関係の業者も被災して火葬することができずお寺で土葬をしていたが、すぐに埋めるスペースが無くなったので上品山へ埋められることになった。現在は土葬になった方を火葬する事が行われているそうだ。
遠藤さん自身は仙台にいたが、母の遺体が見つかったと聞いたのは3月31日のことで、4月2日に"ワゴン車"で母方の実家のある新潟まで棺を運んだそうだ。水からあがって日数がたつと色が悪くなり、しょっぱいにおいもしたが、幸い傷も無かったので母親と確認することができ、親族だけでお通夜を執り行ったという。
福島県に関する話は渋谷さんから聞いた話が特に印象的であった。

◊ 福島県に関する話

渋谷さんの実家は内陸部の福島県郡町にあり、渋谷さんも震災当時そこにいた。実家には父の営む建設会社が併設されていたので、安否はすぐ確認がとれたそうだ。当初はtwitterで郡町の情報を発信し、停電は約三日後に復活した。また、ガスはプロパンガスであったので、こちらも比較的すぐ復旧したそうだ。渋谷さんの家は内陸の山間部ではあるが、古いものも多かったので、全壊した家も少なくは無かったそうだ。父親が地元の建設会社を営んでいることから、ガソリンの優遇などもあったと言う。
原発に関することで、「今すぐにでも逃げろ」と言われたり、実際に横浜に住む叔父から「引っ越してこないか」との話もあったが、断ったそうだ。その理由は、「父や家族みんなが実際に復興を行う立場の人間であり、逃げてしまうと復興する人がいなくなってしまうし、家族を置いて自分だけ逃げることはしたくなかったからだ」と語った。原発が水素爆発した際も何のことかわからず、また現在の報道もそのまま信じるしかないと言う。これは決して積極的な理由ではなく、「勉強して本当のことを知ってしまうと怖いから」だそうだ。また、「福島県が腫れ物のように扱われるのは悲しい」とも語った。現在は福島県の職場に内定を貰い、今後も福島で生きていくと語っていた。
交流会が一通り終わった後、新免先生と宮城学院女子大学の皆さんのはからいで懇親会を開くことになった。交流会では、話をしながら一時涙を見せる場面もあり互いに緊張した様子であったが、懇親会では被災者・非被災者といった枠組みではなく同じ学生として打ち解けたムードで話をすることができた。

◊ 【ゼミ生の感想】

この交流会の開催が決定したときに、「被災したからといって全員が明確な問題意識を持っているとは限らない」と新免先生から最初に聞いていたので、実際交流会が行われるまで一体どのような形になるか非常に不安であった。
しかし交流会終わってから思うには、全くの杞憂であり、参加した学生一人ひとりの話からはそれぞれの思いとしっかりした問題意識が強く伝わってきた。
事前に新聞記事やテレビ番組を分析して勉強して臨んだが、やはり実際に自分の目で見て耳で聞くフィールドワークこそが社会学の基本であることを思い知らされた。新聞やテレビでの被災地や登場人物はどこか違う世界の話のようであったが、話を聞きながら体験をしたその人が、今自分の目の前に実在していると伝わってくることが重要であった。加えて、同世代の似た感性を持つ「大学生」の目を通しての話であったことも良かった。もともと現実の話ではあるが、「twitterで」「下宿先で」、「友人の家に行った」「アルバイト先で」などの話は自分たちの生活と同じであり、会話の状況に自分がいたとしたら、また、自分を話し手の状況に置きかえて考えやすかった。
東電福島原発事故については、やはり渋谷さんの話が非常に強く印象に残っている。「原発は危ないから福島の人は逃げるべきだ。今もいる人はなぜ逃げないのか」などと思っていたが、これは間違ってはいないが滑稽な意見であるように今は感じられる。
福島や福島の人のことを考えた上で発言したはずだが、ここには「安全地帯にいる自分」と「危険な土地で暮らす人」の二者しか存在せず、「故郷福島を復興するには」「復興したいと思い暮らす人」という視点が欠けていた。この考えの中では既に福島は「存在しない土地」「暮らせない場所」として切り捨てられていたのである。想像力を働かせる事無く、「早く逃げれば良いのに」と考えるのは同じ立場に立っているようで、第三者的・他人事なのである。
復興の標語とされている「頑張ろう 日本」、その「頑張ろう」という言葉も、自らが動くニュアンスではなく、頑張ろうと言っている主体はどこか他人であり、第三者的であり、また上からの目線ではないだろうか。福島をめぐる私の発言や、「頑張ろう 日本」という発言はまさに「無責任・当事者回避・他人事社会」の権化であるだろう。
これからの社会を担う私たちは、ただ地震・事故があったと終わるのではなく、根幹の原因を追究して次へ生かしていかなければならない。私たちが、この社会を変えるために何ができるか考えて、実際に行動していかなければならない。「頑張ろう 日本」ではなく「私たちが頑張らねば」何も始まらないのである。

【入江 貴弘】

浅野先生

浅野先生

新免先生

新免先生


宮城学院女子大学の皆さん

宮城学院女子大学の皆さん

話を聞きながらメモをとる浅野ゼミ生

話を聞きながらメモをとる浅野ゼミ生


新免貢ゼミの遠藤さん

新免貢ゼミの遠藤さん

話を聞く浅野ゼミ生と新免ゼミ生

話を聞く浅野ゼミ生と新免ゼミ生


大学院生の渋谷さん

大学院生の渋谷さん

用意した地図で説明する遠藤さん

用意した地図で説明する遠藤さん


話をする野村さん

話をする野村さん

渡邊さん

渡邊さん


懇親会にて

懇親会にて

懇親会にて 野村さんと別所君

懇親会にて 野村さんと別所君


懇親会終了後の浅野先生・新免先生

懇親会終了後の浅野先生・新免先生

懇親会終了後の集合写真

懇親会にて 野村さんと別所君


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