参加者:浅野ゼミ生(2~3年生9名)
桜の聖母短期大学学生(5名)
◊はじめに
同志社大学社会学部メディア学科・浅野健一ゼミでは8月に教育GP制度で実施した東北合宿(岩手・宮城・東京)に引き続き、9月11日(日)~9月15日(木)の日程で再び東北合宿(福島・宮城・岩手)を行った。第二班の合宿では、福島県福島市にある桜の聖母短期大学の学生との交流会を行った。
桜の聖母短大との交流会は8月2日に東北学院大学で開催されたシンポジウム「東日本大震災を超えて:大学のなすべきこと、できること」(日本私立大学団体連合会・日本私立短期大学協会主催)に浅野健一教授が参加したことが契機となっている。桜の聖母短大教学係長の橋谷田恵子先生はこのシンポジウムで、被災後の大学・教授・学生のボランティアの取り組みなどについて発表した。これを聞いた浅野教授が連絡をとり今回の交流会が開催された。
様々な事情で前回の8月に行なわれた教育GP制度を利用した合宿に参加できなかった2~4年生の9名が桜の聖母短期大学との交流、及び半年経った被災地の現状を知るために企画、実現した。
以下が第二班合宿の主な活動報告である。(浅野ゼミ3年 冨田千晴)
まず、宮城県を訪れ、高城町・塩釜市などの沿岸部を見学した。JR仙石線(仙台―石巻)で半年間運休が続く区間の手前の高城駅まで行き、徒歩で塩釜市までの沿岸部沿いを見学した。駅員によると町・駅の壊滅に伴い、新駅を建設するために現在運休している。駅の近辺はさほど被害が無いように見えた。沿岸部にはカキの処理場があったが津波の影響か建物の中は何もなく、敷地内の隅には壊れた車や船が集められており、数人の方が片付けをしている。塩釜市の沿岸部では、全壊した家屋や1階部分が骨組みだけになった工場が残っていた。また歩道のガードレールが倒れて、至るところに段差でき、穴があいていた。
◊討論会:
教学係長の橋谷田恵子さんと連絡を取りあい、9月12日に福島市にある桜の聖母短期大学との交流を行なった。震災・事故発生から約半年経った9月でも約1マイクロシーベルト/hの放射線量があり、福島市は原発から30km圏外としてはかなり高い数値ということだった。桜の聖母学院は幼稚園から小学校、中学校、高校、短大のカトリックの学校で、福島駅から車で15分ほどの閑静な住宅街の中に付属の幼稚園と小学校がある。同大学のマグリット館に到着し、英語学科准教授の千葉克裕先生とボランティア活動に積極的に参加している学生5名(佐々木澪・佐藤あゆみ・大橋沙織・平間茉由・泉敦子の各氏)が私たちに話を聞かせてくれた。
進行は①自己紹介、②桜の聖母短期大学の学生は地震の被害、自身の被災状況や今置かれている状況③浅野ゼミ生からの質問という流れだった。
2年生の佐々木澪さんは津波被害が大きかった相馬市出身で現在は福島市内に1人暮らししている。実家は海から2㎞ほどのところで、自宅は奇跡的に被害がなかったが、周りは浸水した家も多かった。地震発生時は市内にいたが、それから2週間はガソリンもなく、道路も寸断され電車も動いていなかったので実家に帰れなかった。「周りの水は引いていたが匂いはひどく田んぼは全滅だった。海のほうへ1本の道が伸びていたところから津波があがってきたらしい。干からびた魚やあるはずのない船がたくさんあった。実家は高台でもなんでもないし、後ろの家は1階部分が浸水したので、私の家は奇跡的に被害がなくびっくりした」と周りの様子を語ってくれた。
大橋沙織さんの出身は飯館村の隣の伊達市月館町。家は福島第一原発から50~60kmあたりにある。飯館村などはこまめに計測されて報道されているが月舘町についての情報は入ってこない。飯館村に近いところは5マイクロシーベルトあると言われている。「ホットスポットもあるというが市からも町からも知らされない。このあたりは危ないという噂はあるが噂のままで不安」と放射能に対する不安も語ってくれた。
千葉先生は桜の聖母短期大学では3・11地震が発生したときのことを話してくれた。地震発生当時、桜の聖母短大では翌日の卒業式の予行のために約200人が体育館に集まっていた。千葉先生は体育館の扉が閉まらないように必死に押さえていたという。揺れが収まってから駐車場に学生を避難させた。家族がむかえに来れる学生は帰宅したが、たくさんの学生が学生食堂で一夜を過ごしたという。
私たちの「マスコミの報道は真実を伝えていると思うか」という質問に対して、多くの学生が「最初はテレビなどで情報収集し、現状を把握しようとしたが、マスコミにも政府にも東電にも裏切られ、報道されているものは信じずに耳を通り過ぎるだけになった。今はもう一切見ていない。」と答えた。震災後、福島原発が爆発する映像が流れたが「直ちに影響はない」と語った政府や東電、それを何度も報道したマスコミ。しかし、「直ちに問題はない」と語っていたとき、3月15日前後は最も高い放射線量だったが、物資や水の供給を受けるためにたくさんの人が長時間屋外で並んだそうだ。佐藤さんが「"外に出るのは控えるように"という一言さえあれば無駄な被曝をせずに済んだのにと思って悔しい」と話してくれたのが印象に残っている。今では原発関連の本も多数出版されているが、学生たちは目を通す気もテレビの原発関連ニュースを積極的に見ようとも思わないという。逆に千葉先生は、子どもたちのために情報収集をしているという。
ある大学関係者は銀行に勤める25歳の娘のことを語った。津波で流された支店の事務処理のために、震災から1ヶ月間、自転車で各支店を回った。彼女はあとで放射線量が高かったという事実を知った時、「私が子どもを生んだら奇形児になるの?」と聞いた。そのときに事実を知っていれば外に出さなかった。知らないということはこういうことなんだと思った。情報というのは「大丈夫かもしれないけど、最悪のことを想定した情報を発信して欲しい。それで予防して損はないのだから」と話した。
合宿参加者の1人は東北に行く前に家族や友人に「東北ではマスクをして長袖で過ごしなさい」と言われた。用意をしていたが、福島駅に着いても、街を見ても誰もそんな格好で歩いていなかった。皆、半袖で夏らしいラフな格好だった。今も放射性物質があると聞くのになぜ福島の人は対策していないのかと感じ、桜の聖母の学生にきくと、「慣れてしまった」と話した。最初は敏感になってマスクも衣服も対策をしていたが、3月15日の放射線量のことも知り、「もう手遅れ」と話していた。「この校舎(討論会場)は0.002マイクロシーベルト/hだからかなり低いよね」「私の独り暮らしの部屋は0.8マイクロシーベルト/h」と笑いながら話す場面もあり、原発事故から半年で関西に住む私たちと福島で当事者として過ごす桜の聖母の学生との感覚は違うとは予想していたが、ここまで大きく違っていることに驚愕した。
佐々木さんは「福島を離れたい」とはっきり話した。桜の聖母短期大学との討論会でテレビやニュースを見るだけでは分からない話を聞け、大きな衝撃を受けた。福島に行ったからこその討論会ができ、話が聞けた。これからも是非継続して交流していきたいと感じた。
◊〔ゼミ生の感想〕:
地震発生から半年が経った。復興の様子も報道されるようになったが現状はどうなのか。福島原発の事故により放射能という目に見えないものと過ごさなければならなくなってしまった私たちと同年代の学生はどのように感じているのかという話を聞きたいと思い参加した。勉強はしていたが地震の影響を受けず放射能と無縁な生活をしている私たちが渦中の福島の学生にどのように質問し討論会を行なえばいいか不安だった。しかしこの合宿は大変有意義なものになった。テレビでは被害状況の映像が流れて被災者の話が聞けるが、実際に目にし、耳にするのとでは全く違うのだと思い知らされた。
桜の聖母短期大学との討論会では政府や東電、そしてマスコミに対する不満や怒りをひしひしと感じた。私達が地震や原発事故ついて知っていることはマスコミからの情報がほとんどだ。その情報は関西に住む私たちにすぐには影響を及ぼさない。地震があっても私達は普段どおりに生活していた。しかし、東北、福島にいる人たちにとっては命に関わる情報なのだ。「政府や東電などから"外に出るのは控えるように"という一言さえあれば無駄な被曝をせずに済んだのに」という言葉が心に残っている。「直ちに問題はない」という言葉を信じて、親たちは食べ物や水を確保するために子どもたちも一緒に長時間屋外で並ばせた。それを今とても後悔しているという。マスコミの対応も深く考えさせられる討論会になった。
半年経った宮城県の沿岸部の今を垣間見ることができた。徐々に復興しているものの、まだまだ被災の爪あとはそこら中に見つけることができた。討論会では政府、東電、そしてメディアの問題を直接福島の学生に質問することができた。関西にいたのでは体感できなかったこと、聞くことができなかったことを感じることができた。これからも桜の聖母短期大学と交流し、東北に足を運ぶべきだと深く感じた合宿だった。(冨田千晴)
以下は関連写真
仙石線・高城町駅
1階が骨組みだけになった塩釜沿岸部の工場
塩釜市内の全壊した家
塩釜沿岸部には未だ瓦礫が残っている
国道45号線のガードレールは支柱から抜けている
塩釜市の津波の被害を受けた歯科医院
討論会で話を聞きメモを取る
浅野ゼミ生と浅野健一教授
自己紹介する桜の聖母短期大学の学生たち
自宅の放射線量の話をする大橋さん
3月11日夜、学生たちが一夜を過ごした学生食堂を橋谷田先生が案内してくれた