創造教育 活動報告

「3・11」を記憶し、考え行動しよう 浅野ゼミが福島大・鈴木典夫教授ゼミと討論

◊はじめに

  同志社大学社会学部メディア学科の浅野健一ゼミ(18期)22人は教育GP制度を利用し、9月12日午後、福島市にある福島大学の「行政政策学類地域と行政」専攻の鈴木典夫ゼミと、福島大学の災害ボランティアセンターの学生との討論・交流会を行った。
  東日本大震災で実際に被災した学生がマスメディア報道についてどのように考えているかを聞くため、社会学部GP旅費補助制度を使った交流会を計画し、承認された。福島・東京合宿は、原発を追うルポライターの明石昇二郎さん、依光隆明さん(朝日新聞編集委員、「プロメテウスの罠」で12年度新聞協会賞受賞)のインタビューで始まった。福島では二つの地元紙とラジオ福島で調査、福島大の鈴木典夫教授のゼミとの討論会、東電福島原発告訴団の団長、武藤類子さんにインタビューを行い、13日にマーティン・ファクラーNYT東京支局長と金平茂紀・TBS執行委員(「報道特集」担当)へのインタビューで終わった。ラジオ福島ではラジオ番組(収録、9月17日夜にオンエア)に出演し、福島民友社では浅野ゼミの活動が記事にもなった。
  福島大学との討論会は浅野ゼミ院生の矢内真理子さんが6月18日にラジオ福島の月曜Mondayに出演し、福島大学災害ボランティアセンターの土屋一貴さんと交流したことがきっかけで実現した。鈴木教授が同志社大学大学院社会福祉学専攻出身であることも大きな要素だった。また、11年8月に仙台でゼミ討論をした宮城学院女子大学の新免貢(しんめん・みつぐ)教授とゼミ生の相馬唯(ゆい)さんも討論に参加してくれた。
  以下は福島大学における討論会の報告である。

◊討論会

  9月12日(水)午後3時から5時30分過ぎまで、福島大学で同志社大学浅野ゼミと福島大学鈴木ゼミ生、災害ボランティアセンターの学生による討論会が行われた。浅野ゼミからは22人が参加し、鈴木ゼミからは12人が参加した。私たちは討論会の前に田村郡三春町で福島原発告訴団団長の武藤類子さんにインタビューし、バスで福島大学に向かった。大学のキャンパス内に入り、行政社会学部の建物の中へ案内された。
  進行は自己紹介から始まり、震災当時の状況、災害ボランティアセンターの活動に至った経緯、震災当時接したメディア、東電福島第一原発報道について討論した。
  福島大学4年生の安達隆裕さんは東日本大震災の1、2週間前から地震が多かったと話した。「震災当時は大学の寮に友人といて、揺れがいつもと違うと感じた。水道は出なかったが、トイレの水は流せた。でもシャワーが浴びられなくて困った」と当時の様子を語ってくれた。
  志賀政史さんは自宅で祖父と二人でいた時に被災した。兄から外に出ないよう電話があったという。水や電気は使えたとのことだ。テレビでヘリから撮った海の映像を見て初めて被害が大きなものだったと分かったという。コンビニやスーパーは1,2日で品物がすべてなくなった。そのためガソリンや商品、水の情報をmixiやテレビから得ていたという。
  原発については、テレビで何度も報道されていて怖かったと語った。家族と一緒に放射線量が載っているホームページを見ながら夜を過ごしたそうだ。また、原発が爆発した当時はアルバイト先に顔を出していて、被ばくしたかもしれないと語った。また、父からはマスクをして肌の露出はしないように言われ、友人にそのことを話すとデマを流すなと言われたそうだ。
  「震災時に主に接したメディアと、その報道についてどう思ったか」という質問に対して、塩谷麻友さんは、「電波が届きにくかったためテレビを見ることができなかったが、翌朝、いつものように河北新報が届き、震災時に紙媒体は強いと思った。原発報道については放射能物質がどのくらい飛散しているのか数値に関する正確な知識がないからわからない、それが不安につながる」と述べた。
  鈴木教授は「学生たちはボランティアに追われてテレビを見る暇がない」と語った。避難所に人が溢れてその人たちへの対応で情報を得ることが困難だったという。テレビや新聞を見ていなくても情報を集めないといけない状況だったと当時を振り返った。
  岩手県出身の3年生、坂下南さんは岩手日報のページ数がだんだん減っていき、最後は来なくなった、情報がなくて不安だったと語った。生活情報はNHKのラジオから得ていたと述べた。震災後、よく言われる「がんばれ東北」という標語について「東北は既に十分に頑張っている、もう少し休ませてくれないかな」と涙ながらに話した。
  浅野ゼミ側は、11年4月から行っている共同研究「東日本震災・原発とメディア」について概要を説明した。
  両大学の学生の間で、東電福島原発報道に関して、意見を交換した。福島の地元の人々の間で、原発事故を小さく捉え、原発がなくなれば地元の経済や雇用が確保できなくなるという雰囲気があることが分かった。
  浅野教授は「原発のあるところは、電気を大量消費する大都会から遠く離れた過疎地で、政府と電力会社は札束攻勢で、誘致した自治体と住民は原発に依存するしかない構造に追い込まれてきた。差別の構造の中で生まれたのが原発ではないか。私たちの生きている間に収束できないほどの大参事が起きている。これまでの政治社会経済体制を不変のものと考えず、新しい仕組みを構想するのが大学の学徒の仕事ではないか」と述べた。
  仙台から駆け付けた相馬さんは「福島の人たちが何を考え、悩んでいるかを直接聞けてよかった。原発についての見方も様々で、自分がどうすべきかを模索したいと思った。現状を固定化して考えず、新しい社会の在り方を考えるきっかけになった」と感想を話した。
  討論会が終わったあと、福島駅近くの店で、鈴木先生とゼミ生の皆さんと懇親会を行った。討論会では涙を見せる場面もあり、お互い緊張した様子であったが懇親会ではたいへん打ち解けたムードで話をすることができた。
  福島大学のみなさんのご協力に感謝したい。

◊【ゼミ長の感想】:

  私は今回の合宿で初めて福島県を訪れた。震災からちょうど1年半が経ち、原発事故報道がだんだん減ってきているが放射性物質は未だに福島県に存在している。
  現在の福島県の町や人の様子はどうなのか直接確かめたくて、今回の合宿に参加した。原発事故当時は情報を得られなかった学生が多数いた。食料を買うために自転車で出かけた、バイト先に顔を出したなど、真っ先に情報を得るべき人たちが正しい情報を得られなかったことに強い悲しみと怒りを感じた。関西に住んでいる人の中にも、福島からの放射能の影響を気にする人はいる。福島県に住む人なら尚更放射能に対して不安に思うだろう。一番印象に残っている話は、志賀さんが父親から肌の露出を控えるようにという忠告を友人に伝えたら、デマを流すなと言われたことだ。本当に危ないということをマスメディアが報道していたらデマを流すなとは言われなかったと思う。
  テレビや新聞では、震災から半年が経った、1年が経ったと伝えるが福島県では今も震災は続いているのだ。今回の討論会はマスコミの報道について更に考えさせられた。
  今回の討論会を通して、自分がいかに第三者目線で報道を見ていたかがよくわかった。実際に被災していないこともあり、テレビや新聞で見る福島の報道が同じ日本なのにどこか遠いところのように感じている節があった。しかし、実際顔を合わせて話をすることで私たちと同じ世代の学生が福島県で生活しているという、当たり前のことを実感することができた。もしも震災当時に自分が福島県にいて、生活に必要な情報が何も入ってこなかったらと想像力を働かせることが大切だと再認識した合宿だった。 【別所 祐典】

(了)

鈴木典夫教授

鈴木典夫教授

鈴木教授、浅野教授、長畑雪香さん

鈴木教授、浅野教授、長畑雪香さん


メモをとる浅野ゼミ生。右から2人目が新免教授

メモをとる浅野ゼミ生。右から2人目が新免教授

福島大学の学生たち

福島大学の学生たち


福島大学で討論会後

福島大学で討論会後

福島市内の交流会で

福島市内の交流会で


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